美的論争のうれしさ
銭さんがまとめていたキャロルの論文に関連して。
🧠がせわしないせいか、Twitterでは無駄に煽り風にしてしまった。反省。
キャロルの立場は、悪名高い(にもかかわらず根強く人気な)de gustibus non est disputandumの思想に対する一貫したアンチなのだろうとは思う。キャロルも(というより美学者はほぼ全員そうだと思うが)美的判断が論争可能なもの(少なくとも論争することに意義のあるもの)として考えている。
その点は完全に同意するのだが、一方で、美的論争のうれしさを作品の価値の客観的な確定(キャロルの言い方だと「測定」)に置いているところが賛同できない。*1
むしろ美的論争のうれしさは、誰かとの好みの一致や不一致や自分との微妙な違いをはっきりさせてくれて、それによって自分(その可能性や限界)についての理解や、もっと広く人間についての理解を深めてくれる点にあるのではないか。自分の美的な感受性がどこまで可塑性や弾性のあるものなのかを確かめることにうれしさがあるのではないかということだ(それの何がうれしいのかは謎だが)。
もうひとつ、問題になっている事物のポテンシャル(美的経験を与えるポテンシャル)が美的論争や批評によって新たに発見できるという意味でのうれしさもある。これはビアズリー的な考えだと思うが、たぶんビアズリーと違うのは、どれがその事物が本当に持つポテンシャルかという点は気にしていないということだ。事物の美的ポテンシャルは、特定の条件下でそれが与えうる美的経験の幅のぶんだけ豊かなのであって、そのうちのどれが正しいとか間違っているというのはどうでもよい(どうでもよくない場面もあるかもしれないとは思うが)。*2
ゲーミングPC🐲👽🐍⚡🍏やぎらついてる系のデザイナーズマンションはどう見てもくそださいのだが、それをかっこよきと言う人たちが少なくないことがわかるとうれしくなってしまうのは、主に前者の理由だろう。
マリメッコは昭和の家電であるとそれに対するつっこみも、同じ意味でうれしさがあった。