相対主義の程度

 

源河さんの『「美味しい」とは何か』を読む会で、美的性質の傾向性説のようなある種の相対主義(正確には文脈主義)を積極的に難じている方がいたのだが、批判のポイントがずれているように思えてちょっと気になった。

批判の理屈はこうだ。たとえば「フランス料理はおいしくてイギリス料理はまずい」みたいな判断はイギリス人を含む大半の人に共有される(そしてその判断は十分に正当化される)。それゆえ、おいしさについての正しい判断の少なくとも一部の事例は文化相対的ではない。ということらしい。

前段の前提自体があやしいが、ひとまずそこは真だとしよう。問題は、正しい美的判断の一部の事例が文化相対的でないことが文脈主義への反論になるのかどうかということだ。これが反論になるためには、ターゲットとなる文脈主義は次のように全称的な主張をしている必要がある。

A1: すべての美的判断について、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件のもとで決まる。

全称ではない弱いバージョンは以下の通り。

A2: 一部の美的判断については、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件のもとで決まる。

それとは真逆の強い客観主義は以下の通り。

B1: すべての美的判断について、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件にかかわらず決まる。

とはいえ、上記の方の主張はおそらく(少なくともチャリタブルに解釈すれば)以下の弱いバージョンだろう。

B2: 一部の美的判断については、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件にかかわらず決まる。

明らかなように、A2とB2は両立可能である(強調点のちがいはあるが)。また、B1がまともに主張されることはまずないだろう。なので、実質的な対立はA1とB2のあいだにある。

一般に文脈主義的なことが言われる場合にA1とA2のどちらが主張されるのかはわからないが、A1を積極的に言うのはけっこう大変だろうなという気はする。またそれを言うことのモチベーションもあまり想像できない。

一方で、B2が容易に言えるとも思えない。B2はたしかに存在命題であり一例を挙げれば済むのだが、美的判断が全体論的な判断である以上、諸条件(主体や環境によって異なりうる部分に限定したとしても)が判断に関与していないことを示すこと自体が難しい。言えるのはせいぜいのところ、フランス料理の例のように「多くの人は属する文化にかかわらずフランス料理をおいしく食べる」くらいのことだろう。その程度の事例であれば、A1でも説明できる。

結果として、B2を支持せず、かつA1を積極的に主張しないかたちでA2を言う、というのがもっとも穏当な立場ということになるのではないか。おそらく源河さんもそういう書きぶりなのではないかと思う。

美学と概念の関数モデル

先週末の科学基礎論学会(プログラム)に参加して、概念論のワークショップを聞いた。提題者の浅野将秀さんが紹介していたロッツェの関数モデル*1が、以前からなんとなく考えていた概念のはたらきのひとつをすっきり整理してくれるものだった。

関数モデルによると、ひとつの概念とは、それに属する諸事例を比較するための観点になるような諸特徴の組だという*2。比較の観点になるそれぞれの諸特徴は「普遍徴標」と呼ばれる。その概念に属する諸事例*3は、その普遍徴標それぞれの値(「特殊徴標」と呼ばれる)によって同定・差異化される。そして、下位概念を特徴づける値は、さらにその下位概念に属する諸事例を比較するための普遍徴標として機能する。

別の提題者の榎本啄杜さんによれば、フロリディの"levels of abstraction"にも近い考え方が見られるという。ようするに、リレーショナルデータベースにおけるフィールドがおおむね普遍徴標に相当するということらしい(個々のレコードを比較するための観点になるという意味で)。榎本さんがAccessを使って説明していてわかりやすかった。

 

美学関連でも同じような発想にしばしば出くわす(もっと素朴なかたちの理論化だが)。たとえば、ダントーの「アートワールド」における"K-relevant predicates"は明らかに普遍徴標のはたらきを持つものとして想定されている。ユールの『ハーフリアル』の定義論における6項目も、諸々のゲームを比較するための観点として提示されている面がある。ウォルトンの「芸術のカテゴリー」における"standard"と"variable"の関係は、少なくとも部分的に普遍徴標とその値の関係として理解できるだろう。『ビデオゲームの美学』における「ナラデハ特徴」もまた、当のメディア(たとえばビデオゲーム)の特性であると同時に、それに属する個々の事例(たとえば個別のビデオゲーム作品)の特殊性を示す観点になるという意味で、それに近い発想である。

こういうのは"determinable/determinate"という対概念で理解するのがいいのかなとこれまで思っていたが、ロッツェ的な枠組みで考えたほうがすっきりするように思う。

 

ワークショップの後半では、学問的な探究をドライブするものとしての(ある種の発見法としての)概念という話がされていて、これも深く同意できた。アリストテレス的な古典的概念論(外延ベースの入れ子構造、類と種差による特徴づけ)がしっくりくる場面もふつうにあると思うが、とくに概念が持つクリエイティビティを強調するような場面では、関数モデルのほうが適切だろう。

実際、ダントーによれば、新しい芸術的述語を芸術家や批評家が提案することは「アートワールドを豊かにする」わけだし、ユールもまたゲームの「定義」が創造のための(場合によっては逸脱的な創造のための)ツールになると考えている。自分でも(研究上はほぼやらないものの)適当な四象限図をでっちあげて諸々のカルチャーの分類と関係を考えるような場合は、ある種の創造的行為としてそれをやっている気がする。

これはもうちょっと一般化して、理論一般の創造的なはたらきの説明としても考えられる。授業で「理論は物事を考えたり整理したり思いついたりするときのツールになるよ」的なことを言うことがしばしばあるが、そこで言っているのはようするにそういうことなんだろうと思う。もちろんツールは特定の方向に誘導するものでもあるので、そのことにつねに意識的であったほうがいいのだが。

*1:ロッツェの概念論についての浅野さんの論文は以下:http://hdl.handle.net/10748/00011791

*2:聞きながらRPGにおけるキャラクターのステータスみたいなことだなと思っていた。

*3:これはどちらかというと個体というより種(下位概念)のイメージっぽかったが、個体と種に違いを設けているのかどうかはわからなかった。

十年紀とアポストロフィ

【問題】以下のうち適切な表記はどれでしょうか?(複数回答可)

  • ① 90s
  • ② 90's
  • ③ 90s'
  • ④ '90s
  • ⑤ 1990s
  • ⑥ 1990's
  • ⑦ 1990s'
  • ⑧ '1990s

正解はこちら → *1

 

十年紀(decade)の英語表記でアポストロフィが使われる場合の適切な使い方について。

以前から「s」の手前にアポストロフィをつける誤表記が多いと思っていたが*2、まったくの間違いというわけでもなさそうなのがわかったので、整理しておきます(結局は間違いと言っていいという結論)。

基本知識

以下は常識的な内容。ここは論点にならないと思われる。

  • 本来の表記は「the nineteen-nineties」であり、末尾の「s」は複数形の「s」である(「199x年たち」の意)。
  • アラビア数字で書くと「the 1990s」(⑤)。これが一番フォーマルな書き方。
  • 西暦の世紀部分を省略する場合、省略箇所にアポストロフィをつける。「the '90s」(④)。これは短縮記号(contraction)や省略記号(omission)としてのアポストロフィの用法である。be動詞や助動詞に使うケースがおなじみだが、スラングでもよく見かける。「drum 'n' bass」「shoot 'em up」とか。
  • 年代表記の場合は、この短縮記号のアポストロフィも省略することがよくある。「the 90s」(①)。Chicago Manual of StyleのQ&Aによると、厳密にはアポストロフィをつけたほうがいいらしいが。
  • 以上のルールからすれば、「the 1990's」(⑥)や「the 90's」(②)は単純に間違いだということになる(数字と「s」のあいだには何も省略されていないので)。印象としては、国内のテキストだとこの表記がかなり多い。ただし、あとで書くように、アメリカ英語ではこの表記が使われているという説がある。
  • 見たことない気がするが、「the '1990s」(⑧)は完全な間違い。
年代の所有格?

「1990年代の」を意味したいとき、つまり所有格にしたいときはどうすればいいか。

  • これもCMOSのQ&Aから引くが、基本的には、複数形の「s」を含む語尾の「s」と所有格の「's」が競合するケース一般と同じに考えていいらしい。たとえば「ladies」を所有格にする場合、「ladies's」ではなく「ladies'」となる用法だ。*3
  • なので、「1990年代の」は「the 1990s'」(⑦)や「the 90s'」(③)でよいということになる。「the 90's」や「the 1990's」にはならない。
  • さらにそのルールだと「the '90s'」という表記も適切だということになるが、シングルクォーテーションで囲っているように見えるので(マヌケ引用符だとむしろそのようにしか見えないので)、避けたほうがいいと思う。
アメリカ英語では「1990's」と書く説

いろいろ調べていると、アメリカ英語だと「1990's」とするのが普通という説がけっこう見つかる。さらには、質問サイトでよくある「どの表記が正しいですか?」という質問に対して「's」を推す回答者が実際に一定数いる(それの反対意見も必ずあるが)。

たとえば、以下の1997年の記事では、アメリカの読者向けでないかぎりは使うべきではないという注意つきではあるものの、アメリカ英語では「the 1970's」と書くべしという記述がある。

2000年刊行のアメリカ英語のスタイル辞典には、もうちょっと詳しいことが書いてある。それによると、アポストロフィをつける表記は1970年代あたりまでは普通だったが、近年はアメリカ英語でもアポストロフィをつけない方向になっているらしい。

引用しておく。

[p. 25] Apostorohe. [...] Third, it is sometimes used to mark the plural of an acronym, number, or letter--e.g.: CPA's (now more usually CPAs), 1990's (now more usually 1990s), and p's and q's (still with apostrophes because the letters are lowercase).

[p. 95] D. 1990s vs. 1990's. When referring to decades, most professional writers today omit the apostrophe: hence, 1990s instead of 1990's.

[p. 234] D. Decades. As late as the 1970s, editors regularly changed 1970s to 1970's. Today, however, the tendency is to omit the apostrophe.

考えあわせると、もともとアメリカでは「1990's」がそれなりに使われていた時期があったが、いまでは(少なくともフォーマルな場面では)かなり古い表現になっているということだと思われる。自分の経験としても、アメリカの出版社が刊行した新しめの出版物の中で「's」表記を目にした記憶はない。

日本人が書く英文でいまでも「90's」や「1990's」と書くケースがなくならない理由のひとつは、おそらくこの古いアメリカ用法の名残だろう。

アポストロフィと複数形

そもそもなぜ「1990's」という表記があったかというと、短縮記号としての用法とは別に、特定の条件のもとでは例外的にアポストロフィを複数形の「s」の手前に添えるという用法があるからである。

基本的な考え方は、たんに「s」をつけただけだとすわりが悪い場合につけるということらしい(参照)。具体的には以下のケースなど。

  • ケース①:単一の文字を複数形にするケース。たとえば「a」の複数形を「a's」にするようなケース。大文字の場合はとくにまぎらわしくないのでアポストロフィをつけなくていいが、小文字の場合はつけないと「as」みたいになってしまうので、つける必要がある(あるいは引用符で括るとかイタリックにするとかすればアポストロフィはいらない)。
  • ケース②:自己指示的な単語に複数形の「s」をつけるケース。たとえば「and」という語がその語自体を指しており、かつそれを複数形にする場合に、「and's」とする。これも引用符やイタリックを使えば済むが。
  • ケース③:頭字語を複数形にするケースの一部。すべて大文字で構成された頭字語(「DVD」など)についてはそのまま「s」をつけるだけで問題ないが、たとえば見出しなどで頭字語以外もすべて大文字になっているようなケースでは、アポストロフィを加えて「'S」としないとわかりづらいかもしれない。
  • ついでに、New York TimesのQ&Aによると、ある種のスタイルルールでは、ピリオドつきの頭字語の複数形の場合は、見やすさのために「's」にするという決まりがあるらしい。ただ、このQ&Aに書いているように、読者はそれを見て文句を言うそうなので、標準的な表記ではないのだろう。

というわけで、「's」を複数形として使うケースは例外的にある。とはいえ、上に引用した辞典に書いてあるように、十年紀の表記にその用法を適用することはなくなりつつあるようだ。

余談

この記事では、都合上アポストロフィをすべていわゆるマヌケ引用符(U+0027。ストレート型で、くるんとなっていないやつ)で表記してあるが、本来はシングルクォーテーションの閉じ側(U+2019)のかたちである。

  • U+0027: '
  • U+2019: ’

ややこしいことに、Unicodeの規格上はU+0027の名前が「Apostrophe」でU+2019の名前が「Right Single Quotation Mark」なのだが、アポストロフィの見た目としてはU+2019が適切である。

Wordでは設定次第でクォーテーションの開閉が自動で調整されるので、「’90s」のようにU+2019を語の先頭につけるのがちょっとめんどくさい。

*1:①④⑤が適切。条件つきで③⑦も適切なケースがある。解説は本文。

*2:日本人のテキストだと、フォーマルかカジュアルかにかかわらず、たぶん半分以上のケースで間違えているんじゃないかと思うが、ネイティブの英文でも、カジュアルな文章だとたまに間違いを見る。たとえば、Weblioで「the 2010's」が引っかかるが、そこで厚生労働省の文章が例文として引かれていたりして地獄感がある。ポスターデザインなどでもよく間違えてますね。

*3:スタイルルールによっては「s」が末尾に来る単語の所有格にも「's」をつける(つまり「ladies's」にする)こともあるようだ。余談だが、服屋などで「men's」に引っ張られて「kid's」となっていたり、「men's」と「ladies」が並んでいたりするのもよく見かける。これもあるあるの間違いだと思う。

スノッブワールドの作り方

gnckさんのこのタイプのツイートに便乗するかたちで、まいど品のないスノッブdisをツイートしている気がするが、ちくちくセーブ期間中なのでこっちに書く。

いまのところの考え:

  • ルールブックが隠されている(本当にそんなものがあるかどうかはともかく)のはたしかにクソゲーだ。
  • とはいえ、そのこと自体は成熟した美的文化*1一般が持ちがちなエリーティズムのほぼ必然的な帰結であり、とくに悪いことだとは思わない(外から見ればうざいが*2、人のこと言えない)。ルールブックを探す楽しみもあるかもしれない。
  • なぜスノッブワールドができあがるかというと、正統性(ちゃんとしてる)を押し出すことは美的エリーティズム(センスのよさ!)とは別のタイプのエリーティズムであるにもかかわらず、両者が混同されるから。
  • ようするに、作法が高度に発達していくことで、センスが全投入されるような生きた美的実践ではなくなる(にもかかわらず美的文化を詐称する)。これはスノッブが生息しやすい環境だ。
  • スノッブワールドがなぜ悪いかと言うと、徳の低いふるまいをアフォードするから。
  • 徳の低さを競うゲームをしてると考えれば、スノッブもちょっとかっこいいかもしれない(俗物王におれはなる)。

*1:もうちょっと限定すると、アヴァンギャルド(攻めた表現)があるタイプの文化。

*2:ついでに言うと、しばしば持ち出されるゲームの比喩もうざい。

*3:アートの世界が全体としてそうかどうかは知らないが、少なくともその一部にスノビズムの気を色濃く感じる。できれば否定してほしい。

いつも気になるパラドックス

選挙のときはいつもparadox of voting*1の問題が気になってしまい、可能な応答を少し調べては難しいなあと思ってもやもやしてしまう。

☁☁

投票は合理性で説明できるタイプの行為ではないと考えてしまえば、ある意味ではすっきりする。とはいえ、そうするとなんらかの道徳的な前提を持ち出さないかぎり人に要求できなくなるだろうし*2、現行の社会で選挙制度がそれなりに有効に機能していることの説明も難しくなるかもしれない。*3

哲学上のたいていのパラドックスは地に足のついていないふわふわした空中戦に感じるのだが(なので難解なパズルとして気軽に楽しめるのだが)、このパラドックスは自分の生活上の意思決定に直接つながる問題だ。こういうのはやはり何か解決がほしいと思ってしまう。実存がかかってるとはそういうことかもしれない(ちがうかもしれない)。

選挙はいろんな意味で不愉快になることが多いので基本苦手なのだが、選挙のたびに少し勉強しようという気持ちになれるという意味ではいい面もあるのかもしれない。

☁☁

*1:同名のパラドックスがいくつかあってややこしいが、ここで問題にしているのは投票行動の(一見したところの)非合理性の話(Down's paradoxとも呼ばれるらしい)。日本語ウィキペディアにある「投票の逆理」はぜんぜん別の話。

*2:個人的には、人に投票行動を要求できない(投票しない人を非難できない)こと自体はとくに問題だとは思わないが、「政治を変えたければ投票に行くべきである」的な見解は擁護されるべきものとして広く共有されているように思われる。そういう主張をするのであれば、投票行動には合理性があると言えたほうがいいだろう。

*3:人間は非合理的な生きものだからと言ってしまえば済みそうだが、そうすると民主主義社会における最重要の制度が非合理性を前提としてデザインされているということになって正直かなり気持ち悪い。

倍速の美学未満

Twitterのちく度を減らそうとしているのでこっちに書いておきます。以下でmine_oさんが示されている「分析美学」への「疑念」に関して。

読解やアーギュメントの作法的なことについていろいろ言いたくなりますが、それはがまんしてチャリティを最大限発揮すると、気にされている点は以下の銭さんのチャートの前提(1)の右を読んでもらえば終了する話だと思われます。

ついでにめちゃくチャリティを発揮して「〔倍速視聴はよろしくないという〕説教を退ける論理」の可能性を2つ挙げておくと:

  • ①不適切な鑑賞はそれにもとづいて作品の批評をしようとしなければ何もわるくない(好き好きに楽しめばよろしい)。
  • ②倍速視聴が適切な鑑賞と認められるような実践が確立しているのであれば少なくともその実践の内部では何もわるくない。

おわり。*1

*1:今日の疑問:なんで「分析美学」に対するこういうのが多いんだろう。他の分野でも同じようなことがあるんだろうか。

ネタバレ美学における森さんの立場が海原雄山的だったせいかもしれない。それだけオンラインで読めるし。

おそらく鑑賞の「適切さ/不適切さ」という概念にみんなひっかかるんだろうと思うが、少なくともそれについて何か言う場合は、議論の適用範囲に十分に注意したうえで、いまある批評実践のあり方を十分に見つめてからにしてほしい。

愛と批評

最近の若者は批評を嫌う的なくだらない文章を読んだが*1、若者がどうかはともかく、作品に対する理由にもとづいた価値づけ(とりわけネガティブなもの)を嫌う人が一定数いるのはたしかだろう。

授業でも「美的判断は好き嫌いとは違っていて~~」みたいな話をすると、学生からそういう方向のリアクションが返ってくることがまあまあある。ただの美的相対主義ではなく、そもそも作品を語ること自体に対して違和感があるらしい。

 

美学に侵されすぎたせいか、批評を嫌うそういう気持ちはよくわからなかったのだが、最近Sable*2のデモ版についてネガティブなことを言ってるツイートを見ていらっとしたときに、ああこれのことか、と納得した。

納得したというよりは、思い出したというのが正確かもしれない。そういえば、昔はそういう感情をもっといろいろなものに対して持っていた気がする。

いらっ の中身は、単純に作品のポイントがぜんぜんわかってなさそうなことへの腹立ちという面もあったのだが、どちらかと言うと、超絶した作品に対してあれこれ言うな、欠点があろうがなかろうが愛でろ、という気持ちが主だったように思う。

 

部分だけ取り出すな。わるさを見つけようとするな。よさに理由をつけるな。そもそも価値のジャッジを下すな。すべてをそのまま受け入れろ。etc.

この種の規範的な態度にいちばんフィットする概念は、おそらく愛だろう。

愛と批評は明らかに相性が悪いが、両方の態度が文化的対象に対して向けられがちというのは興味深い事実だと思う。

子育ての美学(うちの子がいちばんかわいい)もこういう話になるのかもしれない。

*1:著者名を見たら倍速視聴についてしょうもない文章を書いてたのと同じ人だった。

*2:宮崎的な世界観×バンドデシネ風のアートワークのインディーゲーム。ずっと待望している。 https://store.steampowered.com/app/757310/Sable/

哲学のわかり方

哲学者はなぜ部屋に引きこもって他人の文章を読むだけで研究できるのか。なぜ外に出てデータを取りにいかないのか?

この疑問に対して自分なりの回答を用意しておく必要があるとつねづね思っているが(学際的な分野に関わっているとしばしば言い訳が求められるので!)、昨日授業後に雑談していて、こういう答え方ができるかなと思いついたことがいくつかあった。*1

たとえば歴史学者社会学者や人類学者は、まだわからないこと、まだ知らないことを明らかにしようとするところにモチベーションがある。それゆえ、外の世界に出て新しいデータを見つけようとする。比喩で言えば、ジグソーパズルを完成させるために欠けたピースを探す。パズルのように決まった正解があるわけではないので、むしろモザイク画を作るための素材を探す、という比喩のほうが適切かもしれない。

一方で哲学者は、自分(および想定される読者)がすでにそれなりにわかっていることについて考えようとする。なぜ考えるかというと、もうちょっとわかりたいからだ。

すでにわかってることをなぜさらにわかろうとするのか、というもっともな疑問がありそうだが、そこにまさに哲学者ナラデハのモチベーションがあるのではないかと思う。つまり、既存のわかり方、日常生活上のわかり方にはなぜか満足できなくて、もっと高度なわかり方、「これぞまさに「わかり」だ!」という感じのわかり方を求める。これが哲学者のベースにある欲求ではないか。

ここで求められるわかり方は人によって違うかもしれないが、大ざっぱにいえば、わかりたい事柄を要素にばらして構造化して再度まとめあげる(比喩で言えば、何かごちゃっとした複合体を整理された積み木として組み立て直す)というやり方が普通だろう。それに加えて、個々の積み木のブロックに汎用性がある(つまり概念の抽象度が高い)とか、他のさまざまな積み木と密接につながっている(体系性がある)ほうが、よりわかり度が高くてうれしいかもしれない(このへんも人によって違うだろうが)。


歴史学者社会学者は、しばしば自分が作ろうとする絵を相対化する。つまり、この絵は世界をあるひとつの観点から理解可能なものとして描いた姿でしかない。それゆえ、ほかにも世界の描き方、理解の仕方はいろいろありえるのだ、と。

そして、直観直観と言いがちな哲学者に対して次のような疑問を抱くかもしれない。哲学者は自分や読者がすでに何かをわかっていることを前提にして話を進めるが、なぜ本当にわかっていると言えるのだろうか。むしろ自分の見方を疑ったり相対化することで、よりもっともらしい世界の姿が見えてくるのではないか。そのためには、つねに新しいデータを、世界のモザイクを作るための素材を探しに、外に出かけるべきではないのか、と。

この疑問にどう答えるかは哲学者によって違うかもしれない。自分の答え方は現状だとこうなると思う:

自分がわかっていると哲学者が思っていること(直観)が、本当かどうかはたいした問題ではない(「本当」が何を意味するかはともかく)。重要なのは、ひとまず自分がそのような素朴な「わかり」を持っているという事実、そしておそらくは読者もそれを共有しているであろうという事実だ。なぜかというと、哲学者の目標は、その素朴な「わかり」を積み木のブロックで組み立て直して、もっとすごい「わかり」に変えることだからだ。それはもともとの「わかり」の中身を変えることではない。むしろ「わかり」の構造を変えることだ。

ついでに次のように付け加える:

読者が自分と同じ直観を共有しているかどうかはわからないが、それも大きな問題ではない。というのも、直観を共有している人だけに向けた議論だからだ。スタート地点でその素朴な「わかり」を共有していない人にとっては、組み立て直した結果の「わかり」の意義はわからないだろう。とはいえ、多くの人(少なくとも、特定の文脈・実践に関わっている人の多く)はこの直観を共有してるはずだけどね!(そうでしょう?)*2


おそらく、この最後の部分、自分と想定読者が直観を共有していることについて強引に同意を求めているように見えるところが、他分野の人からすれば気持ち悪いんだろうという気はする。素朴な「わかり」を他人と共有していることについて、なぜそこまで楽観的にふるまえるのか、なぜそのような自信を持てるのか、という疑問はたしかにもっともだ。

哲学者としてはそこで「この直観がわからんなら、not for you」と言ってしまってもいいかもしれないが、もうちょっと建設的に答えることもできる:

前提となる直観が共有されているか否かということは、哲学的な議論の結果として見えてくることも多い。わたしはこれこれの「わかり」を素朴に持っていて、それを人と共有しているとひとまずは信じている。そして、それを前提にして自分の議論を組み立てる。しかし、それが絶対的だとは思っていない。自分の議論へのさまざまな反応を通して、別のわかり方があることが見えてくるかもしれない。自分の直観を明示することは、それを人に強要することではなく、それについてどう思うか人に打診することでしかない。もしあなたに別の直観があるなら、その直観についても別の積み木がありえるというだけのことだ、と。


哲学は、ある実践の外側からその実践を記述するタイプの研究ではない。むしろ実践の内側からの視点を持つタイプの研究だ。しかしおそらくその目的は、実践を内側からそのまま記述することというよりは、実践よりもっと「わかり度」が高いかたちで記述することにある。

この「わかり度が高い」とはどういうことなのかに答えるのは難しいが、おそらく哲学者であれば、ある程度それについての直観を共有しているだろう。

*1:メタ哲学を勉強すればもうちょっとましなことを書けるような気がするが、ひとまず自分なりに考えてみたことをメモしておくという趣旨のブログです。

*2:哲学者が何か具体例を出す場合、自分の直観の内容を示しつつ、それについての同意を(当然のこととして)読者に求めているケースが多いのではないかと思う。

「A」と呼ばれているものはAだ

ちくちくエッセイの続き。

AとBは違う」ほどではないものの、次のような主張もそれなりに見かける。

xはPを「A」と呼ぶ。なのでxにとってPはAだ。*1

これも「AとBは違う」と同じく、言葉の落とし穴にはまっているとしか思えない。言葉づかいではなく、言葉が意味するものに注目すれば、何が問題かはたぶん簡単にわかる。

一般に「A」という言葉が意味するものは、文脈によって違う可能性がある。この文脈では「A」はPを意味するし、別の文脈では「A」はQを意味する、ということは普通にある。さらにPとQが違う場合でも、それらがどれだけ違うか(どの点で同じで、どの点で違うか)はケースによってさまざまだろう。*2

なので重要なのは、当の文脈で「A」と呼ばれているものが何なのか*3、それは他の文脈で「A」と呼ばれているものと同じなのか別物なのかをちゃんと考えることだ。つまり、言葉ではなく物事を気にすることが重要だ。

「「A」と呼ばれているからAだ」という主張が、この考えとは真逆なのは明白だろう。その主張を本気でしているかぎり、PとQの違いは永遠に見えてこない。

ついでに単純に気になるのだが、この手の主張をする人は、多義性、メタファー、皮肉などを普段どのように処理してるんだろうか。

*1:「x」は「みんな」の場合もあれば「わたし」の場合もあるかもしれない。「なのでPはAだ」の部分が隠れた結論になって、そのもとでその後の議論が続くケース(結果として明らかに論理が飛躍してるケース)もしばしば目にする。

*2:ここでは、わかりやすい多義性のケースだけを念頭に置いているわけではない。「どういう意味でその言葉を使っていますか?」という問いが有意味になる場面すべてを想定している。

*3:「何なのか」という問い方はなぜかミスリーディングになりがちなので、「どういうものか」という言い方をしたほうがいいかもしれない。いずれにしても、ただの言い換えではなく特徴づけをすべきということだ。ついでに書くと、これをするために「定義」は必要ない。定義などなくても、ある言葉の使い方がおおむね同じか全然別かくらいを判別する能力をわれわれは持っている。

美的論争のうれしさ

銭さんがまとめていたキャロルの論文に関連して。

🧠がせわしないせいか、Twitterでは無駄に煽り風にしてしまった。反省。

キャロルの立場は、悪名高い(にもかかわらず根強く人気な)de gustibus non est disputandumの思想に対する一貫したアンチなのだろうとは思う。キャロルも(というより美学者はほぼ全員そうだと思うが)美的判断が論争可能なもの(少なくとも論争することに意義のあるもの)として考えている。

その点は完全に同意するのだが、一方で、美的論争のうれしさを作品の価値の客観的な確定(キャロルの言い方だと「測定」)に置いているところが賛同できない。*1

むしろ美的論争のうれしさは、誰かとの好みの一致や不一致や自分との微妙な違いをはっきりさせてくれて、それによって自分(その可能性や限界)についての理解や、もっと広く人間についての理解を深めてくれる点にあるのではないか。自分の美的な感受性がどこまで可塑性や弾性のあるものなのかを確かめることにうれしさがあるのではないかということだ(それの何がうれしいのかは謎だが)。

もうひとつ、問題になっている事物のポテンシャル(美的経験を与えるポテンシャル)が美的論争や批評によって新たに発見できるという意味でのうれしさもある。これはビアズリー的な考えだと思うが、たぶんビアズリーと違うのは、どれがその事物が本当に持つポテンシャルかという点は気にしていないということだ。事物の美的ポテンシャルは、特定の条件下でそれが与えうる美的経験の幅のぶんだけ豊かなのであって、そのうちのどれが正しいとか間違っているというのはどうでもよい(どうでもよくない場面もあるかもしれないとは思うが)。*2

ゲーミングPC🐲👽🐍⚡🍏やぎらついてる系のデザイナーズマンションはどう見てもくそださいのだが、それをかっこよきと言う人たちが少なくないことがわかるとうれしくなってしまうのは、主に前者の理由だろう。

マリメッコは昭和の家電であるとそれに対するつっこみも、同じ意味でうれしさがあった。

*1:この点は微妙ではあって、鑑賞実践の指針として価値の客観的な確定を目標に据えましょう(その目標の達成自体にうれしさはないけどね)くらいの話ならそんなに見解の違いはない気はする。

*2:これも上の注と同じく、あくまで美的論争を続けるための指針として正しい評価を目標にしているだけ、ということなら対立点はないかもしれない。

休み

5月は原稿3本に応哲発表のおまけもあって、けっこうしんどいことになっていた。2月3月は引っ越しで、4月もなんやかやでばたばたしていたので、外向けの原稿を書くのはひさしぶりだった。

先週末にひとまずぜんぶ片づいて休めると思ったが、うまくいかない。体がだるいとかではなく🧠がせわしない。

マインドフルネスでもやればいいんだろうか。外やお店をぶらぶらしづらいというのが、ここに来てダメージになってるのかもしれない。

 

京都で自転車に乗るのはまあまあストレスがある。車の運転が雑なのと路面が悪い。

あと予想してたことだが、道がグリッドかつ坂がほぼないのがかなりつまらない。その点、東京(とくに武蔵野台地のはしっこ)の地理はぐちゃぐちゃでよかった。

でかい建物が好きなので、それを目にする機会がないのも地味につらい。高架がまずないし。とはいえ鴨川はよい🦆🦆🦆

AとBの違いは何ですか

ネット上の言説などを眺めていて昔から気になっていることのひとつだが、「A」と「B」が日常的におおよそ交換可能な語である場合に、「AとBは違う」と言いたがる人はけっこういる。(その派生形として「AとBの違いは何か?」「AとBの違いがわかりません」「AとBの定義は?」などもついてくる。)

「A/B」の組の具体例は大量にあるが、身近なところでは「ナラティブ/ストーリー」「ビデオゲームデジタルゲーム」「バーチャル/仮想」「感情/情動」「芸術/アート」「形式/様式」「経験/体験」などがわかりやすい例かもしれない。*1

そういうことを言いたくなる動機はそれなりにわかるつもりだが、概念とその名前を区別すればもっとスマートな物言いや思考ができるのに、といつも思ってしまう。

この手の言説のポイントは、〈しばしばごっちゃにされるが区別すべき事柄Pと事柄Qがあり、それを言い分けたい〉というくらいのことだろう。つまりPとQという概念的な区別を新たに立てる(場合によってはそれぞれの事柄の特徴づけをする)ことが目的になっているはずだ。

しかし、「AとBは違う」という物言いは、それに加えて「A」と「B」という日常語をPとQの名前として採用するということをやっている。そしてそのやり方がまずい。

まず、PとQの名前としてどの語を採用するかは基本的にオプショナルだ。日常的な用語法とのコンフリクトを避けたいなら、既存の語を使うよりは新語を作ったほうが便利だろう(既存の語でぴったりのものがあれば、それを使ったほうがいい場合もあると思うが)。

既存の語を使う場合も「この文脈内でのみ、その用語法を便宜上採用します」というのを明示するならまだいいのだが、「AとBは違う」という言い方をしてしまうせいで、Pと「A」、Qと「B」が強く結びついてるという含みを持ってしまう。(その結びつきに何の必然性も合理性もないにもかかわらず。)*2

結果として、この発言を聞いた人は「AとBは同じだと思ってたけど、実は違うのか」「AとBは違うらしいが、違いがよくわからない」などと考えてしまう。あげくに知恵袋に「AとBの違いはなんですか?」などとポストしてしまう。(日常的な文脈では「A」と「B」は同義で使われているという事実を承知しているにもかかわらず!)

さらに、PとQが別の言葉で呼び分けられているケースや、「A」や「B」がPやQ以外の事柄を意味しているケースに出くわしたりすると、混乱に拍車がかかることになる。

〈言葉づかいはさておき、とにかくある文脈においてその言葉で意味されている事柄が何なのかに十分に注意する〉という考え方をすれば、こういう混乱からは無縁でいられる。*3

ようするに言葉はどうでもよくて物事を気にしましょうということなのだが、言葉について十分に考えたことがないと、どうでもいいはずの言葉に足をすくわれ続けるということかもしれない。

この手の悩みを(感じ悪くないやり方で)解消する役割が哲学者にはあるのかもしれないとも思うが(多分にパターナリスティックな行いなので、感じ悪くなくやるのは無理だが)、あまりに例が多いのでちょっとうんざりしている。

*1:これらの語が特定の文脈では交換可能でないことは承知している。

*2:ちなみに「A」や「B」が外来語の場合、ここで「海外ではこれらの概念が区別されている、なぜなら言葉として区別されているから」うんぬんという理屈が持ち出されることもあるが、たんにある言語圏に2つの語が存在することは、その言語圏で2つの概念が区別されていることも、それらの概念がそれぞれの語に一意に対応していることも含意しない。2つの語がほぼ交換可能なかたちで使われることは何語だろうが普通にあるし(冗長性)、逆に1つの語が場面によって異なる概念を指すこともある(多義性)。

*3:「A/B」がテクニカルタームの場合、用語法が確立している(それゆえ言葉づかいに注意する必要がある)という点では多少話が変わるが、それも〈ある特定の文脈ではこの事柄にこの語が割り当てられるという合意がされています〉とか〈特定の文脈ではこの語とこの語はそれぞれ別の事柄に割り当てられるという合意がされています〉というくらいのことでしかない。

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