AとBの違いは何ですか

ネット上の言説などを眺めていて昔から気になっていることのひとつだが、「A」と「B」が日常的におおよそ交換可能な語である場合に、「AとBは違う」と言いたがる人はけっこういる。(その派生形として「AとBの違いは何か?」「AとBの違いがわかりません」「AとBの定義は?」などもついてくる。)

「A/B」の組の具体例は大量にあるが、身近なところでは「ナラティブ/ストーリー」「ビデオゲームデジタルゲーム」「バーチャル/仮想」「感情/情動」「芸術/アート」「形式/様式」「経験/体験」などがわかりやすい例かもしれない。*1

そういうことを言いたくなる動機はそれなりにわかるつもりだが、概念とその名前を区別すればもっとスマートな物言いや思考ができるのに、といつも思ってしまう。

この手の言説のポイントは、〈しばしばごっちゃにされるが区別すべき事柄Pと事柄Qがあり、それを言い分けたい〉というくらいのことだろう。つまりPとQという概念的な区別を新たに立てる(場合によってはそれぞれの事柄の特徴づけをする)ことが目的になっているはずだ。

しかし、「AとBは違う」という物言いは、それに加えて「A」と「B」という日常語をPとQの名前として採用するということをやっている。そしてそのやり方がまずい。

まず、PとQの名前としてどの語を採用するかは基本的にオプショナルだ。日常的な用語法とのコンフリクトを避けたいなら、既存の語を使うよりは新語を作ったほうが便利だろう(既存の語でぴったりのものがあれば、それを使ったほうがいい場合もあると思うが)。

既存の語を使う場合も「この文脈内でのみ、その用語法を便宜上採用します」というのを明示するならまだいいのだが、「AとBは違う」という言い方をしてしまうせいで、Pと「A」、Qと「B」が強く結びついてるという含みを持ってしまう。(その結びつきに何の必然性も合理性もないにもかかわらず。)*2

結果として、この発言を聞いた人は「AとBは同じだと思ってたけど、実は違うのか」「AとBは違うらしいが、違いがよくわからない」などと考えてしまう。あげくに知恵袋に「AとBの違いはなんですか?」などとポストしてしまう。(日常的な文脈では「A」と「B」は同義で使われているという事実を承知しているにもかかわらず!)

さらに、PとQが別の言葉で呼び分けられているケースや、「A」や「B」がPやQ以外の事柄を意味しているケースに出くわしたりすると、混乱に拍車がかかることになる。

〈言葉づかいはさておき、とにかくある文脈においてその言葉で意味されている事柄が何なのかに十分に注意する〉という考え方をすれば、こういう混乱からは無縁でいられる。*3

ようするに言葉はどうでもよくて物事を気にしましょうということなのだが、言葉について十分に考えたことがないと、どうでもいいはずの言葉に足をすくわれ続けるということかもしれない。

この手の悩みを(感じ悪くないやり方で)解消する役割が哲学者にはあるのかもしれないとも思うが(多分にパターナリスティックな行いなので、感じ悪くなくやるのは無理だが)、あまりに例が多いのでちょっとうんざりしている。

*1:これらの語が特定の文脈では交換可能でないことは承知している。

*2:ちなみに「A」や「B」が外来語の場合、ここで「海外ではこれらの概念が区別されている、なぜなら言葉として区別されているから」うんぬんという理屈が持ち出されることもあるが、たんにある言語圏に2つの語が存在することは、その言語圏で2つの概念が区別されていることも、それらの概念がそれぞれの語に一意に対応していることも含意しない。2つの語がほぼ交換可能なかたちで使われることは何語だろうが普通にあるし(冗長性)、逆に1つの語が場面によって異なる概念を指すこともある(多義性)。

*3:「A/B」がテクニカルタームの場合、用語法が確立している(それゆえ言葉づかいに注意する必要がある)という点では多少話が変わるが、それも〈ある特定の文脈ではこの事柄にこの語が割り当てられるという合意がされています〉とか〈特定の文脈ではこの語とこの語はそれぞれ別の事柄に割り当てられるという合意がされています〉というくらいのことでしかない。