「A」と呼ばれているものはAだ

ちくちくエッセイの続き。

AとBは違う」ほどではないものの、次のような主張もそれなりに見かける。

xはPを「A」と呼ぶ。なのでxにとってPはAだ。*1

これも「AとBは違う」と同じく、言葉の落とし穴にはまっているとしか思えない。言葉づかいではなく、言葉が意味するものに注目すれば、何が問題かはたぶん簡単にわかる。

一般に「A」という言葉が意味するものは、文脈によって違う可能性がある。この文脈では「A」はPを意味するし、別の文脈では「A」はQを意味する、ということは普通にある。さらにPとQが違う場合でも、それらがどれだけ違うか(どの点で同じで、どの点で違うか)はケースによってさまざまだろう。*2

なので重要なのは、当の文脈で「A」と呼ばれているものが何なのか*3、それは他の文脈で「A」と呼ばれているものと同じなのか別物なのかをちゃんと考えることだ。つまり、言葉ではなく物事を気にすることが重要だ。

「「A」と呼ばれているからAだ」という主張が、この考えとは真逆なのは明白だろう。その主張を本気でしているかぎり、PとQの違いは永遠に見えてこない。

ついでに単純に気になるのだが、この手の主張をする人は、多義性、メタファー、皮肉などを普段どのように処理してるんだろうか。

*1:「x」は「みんな」の場合もあれば「わたし」の場合もあるかもしれない。「なのでPはAだ」の部分が隠れた結論になって、そのもとでその後の議論が続くケース(結果として明らかに論理が飛躍してるケース)もしばしば目にする。

*2:ここでは、わかりやすい多義性のケースだけを念頭に置いているわけではない。「どういう意味でその言葉を使っていますか?」という問いが有意味になる場面すべてを想定している。

*3:「何なのか」という問い方はなぜかミスリーディングになりがちなので、「どういうものか」という言い方をしたほうがいいかもしれない。いずれにしても、ただの言い換えではなく特徴づけをすべきということだ。ついでに書くと、これをするために「定義」は必要ない。定義などなくても、ある言葉の使い方がおおむね同じか全然別かくらいを判別する能力をわれわれは持っている。