哲学のわかり方

哲学者はなぜ部屋に引きこもって他人の文章を読むだけで研究できるのか。なぜ外に出てデータを取りにいかないのか?

この疑問に対して自分なりの回答を用意しておく必要があるとつねづね思っているが(学際的な分野に関わっているとしばしば言い訳が求められるので!)、昨日授業後に雑談していて、こういう答え方ができるかなと思いついたことがいくつかあった。*1

たとえば歴史学者社会学者や人類学者は、まだわからないこと、まだ知らないことを明らかにしようとするところにモチベーションがある。それゆえ、外の世界に出て新しいデータを見つけようとする。比喩で言えば、ジグソーパズルを完成させるために欠けたピースを探す。パズルのように決まった正解があるわけではないので、むしろモザイク画を作るための素材を探す、という比喩のほうが適切かもしれない。

一方で哲学者は、自分(および想定される読者)がすでにそれなりにわかっていることについて考えようとする。なぜ考えるかというと、もうちょっとわかりたいからだ。

すでにわかってることをなぜさらにわかろうとするのか、というもっともな疑問がありそうだが、そこにまさに哲学者ナラデハのモチベーションがあるのではないかと思う。つまり、既存のわかり方、日常生活上のわかり方にはなぜか満足できなくて、もっと高度なわかり方、「これぞまさに「わかり」だ!」という感じのわかり方を求める。これが哲学者のベースにある欲求ではないか。

ここで求められるわかり方は人によって違うかもしれないが、大ざっぱにいえば、わかりたい事柄を要素にばらして構造化して再度まとめあげる(比喩で言えば、何かごちゃっとした複合体を整理された積み木として組み立て直す)というやり方が普通だろう。それに加えて、個々の積み木のブロックに汎用性がある(つまり概念の抽象度が高い)とか、他のさまざまな積み木と密接につながっている(体系性がある)ほうが、よりわかり度が高くてうれしいかもしれない(このへんも人によって違うだろうが)。


歴史学者社会学者は、しばしば自分が作ろうとする絵を相対化する。つまり、この絵は世界をあるひとつの観点から理解可能なものとして描いた姿でしかない。それゆえ、ほかにも世界の描き方、理解の仕方はいろいろありえるのだ、と。

そして、直観直観と言いがちな哲学者に対して次のような疑問を抱くかもしれない。哲学者は自分や読者がすでに何かをわかっていることを前提にして話を進めるが、なぜ本当にわかっていると言えるのだろうか。むしろ自分の見方を疑ったり相対化することで、よりもっともらしい世界の姿が見えてくるのではないか。そのためには、つねに新しいデータを、世界のモザイクを作るための素材を探しに、外に出かけるべきではないのか、と。

この疑問にどう答えるかは哲学者によって違うかもしれない。自分の答え方は現状だとこうなると思う:

自分がわかっていると哲学者が思っていること(直観)が、本当かどうかはたいした問題ではない(「本当」が何を意味するかはともかく)。重要なのは、ひとまず自分がそのような素朴な「わかり」を持っているという事実、そしておそらくは読者もそれを共有しているであろうという事実だ。なぜかというと、哲学者の目標は、その素朴な「わかり」を積み木のブロックで組み立て直して、もっとすごい「わかり」に変えることだからだ。それはもともとの「わかり」の中身を変えることではない。むしろ「わかり」の構造を変えることだ。

ついでに次のように付け加える:

読者が自分と同じ直観を共有しているかどうかはわからないが、それも大きな問題ではない。というのも、直観を共有している人だけに向けた議論だからだ。スタート地点でその素朴な「わかり」を共有していない人にとっては、組み立て直した結果の「わかり」の意義はわからないだろう。とはいえ、多くの人(少なくとも、特定の文脈・実践に関わっている人の多く)はこの直観を共有してるはずだけどね!(そうでしょう?)*2


おそらく、この最後の部分、自分と想定読者が直観を共有していることについて強引に同意を求めているように見えるところが、他分野の人からすれば気持ち悪いんだろうという気はする。素朴な「わかり」を他人と共有していることについて、なぜそこまで楽観的にふるまえるのか、なぜそのような自信を持てるのか、という疑問はたしかにもっともだ。

哲学者としてはそこで「この直観がわからんなら、not for you」と言ってしまってもいいかもしれないが、もうちょっと建設的に答えることもできる:

前提となる直観が共有されているか否かということは、哲学的な議論の結果として見えてくることも多い。わたしはこれこれの「わかり」を素朴に持っていて、それを人と共有しているとひとまずは信じている。そして、それを前提にして自分の議論を組み立てる。しかし、それが絶対的だとは思っていない。自分の議論へのさまざまな反応を通して、別のわかり方があることが見えてくるかもしれない。自分の直観を明示することは、それを人に強要することではなく、それについてどう思うか人に打診することでしかない。もしあなたに別の直観があるなら、その直観についても別の積み木がありえるというだけのことだ、と。


哲学は、ある実践の外側からその実践を記述するタイプの研究ではない。むしろ実践の内側からの視点を持つタイプの研究だ。しかしおそらくその目的は、実践を内側からそのまま記述することというよりは、実践よりもっと「わかり度」が高いかたちで記述することにある。

この「わかり度が高い」とはどういうことなのかに答えるのは難しいが、おそらく哲学者であれば、ある程度それについての直観を共有しているだろう。

*1:メタ哲学を勉強すればもうちょっとましなことを書けるような気がするが、ひとまず自分なりに考えてみたことをメモしておくという趣旨のブログです。

*2:哲学者が何か具体例を出す場合、自分の直観の内容を示しつつ、それについての同意を(当然のこととして)読者に求めているケースが多いのではないかと思う。