相対主義の程度

 

源河さんの『「美味しい」とは何か』を読む会で、美的性質の傾向性説のようなある種の相対主義(正確には文脈主義)を積極的に難じている方がいたのだが、批判のポイントがずれているように思えてちょっと気になった。

批判の理屈はこうだ。たとえば「フランス料理はおいしくてイギリス料理はまずい」みたいな判断はイギリス人を含む大半の人に共有される(そしてその判断は十分に正当化される)。それゆえ、おいしさについての正しい判断の少なくとも一部の事例は文化相対的ではない。ということらしい。

前段の前提自体があやしいが、ひとまずそこは真だとしよう。問題は、正しい美的判断の一部の事例が文化相対的でないことが文脈主義への反論になるのかどうかということだ。これが反論になるためには、ターゲットとなる文脈主義は次のように全称的な主張をしている必要がある。

A1: すべての美的判断について、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件のもとで決まる。

全称ではない弱いバージョンは以下の通り。

A2: 一部の美的判断については、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件のもとで決まる。

それとは真逆の強い客観主義は以下の通り。

B1: すべての美的判断について、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件にかかわらず決まる。

とはいえ、上記の方の主張はおそらく(少なくともチャリタブルに解釈すれば)以下の弱いバージョンだろう。

B2: 一部の美的判断については、その正しさは、判断の主体と対象に関わる諸々の条件にかかわらず決まる。

明らかなように、A2とB2は両立可能である(強調点のちがいはあるが)。また、B1がまともに主張されることはまずないだろう。なので、実質的な対立はA1とB2のあいだにある。

一般に文脈主義的なことが言われる場合にA1とA2のどちらが主張されるのかはわからないが、A1を積極的に言うのはけっこう大変だろうなという気はする。またそれを言うことのモチベーションもあまり想像できない。

一方で、B2が容易に言えるとも思えない。B2はたしかに存在命題であり一例を挙げれば済むのだが、美的判断が全体論的な判断である以上、諸条件(主体や環境によって異なりうる部分に限定したとしても)が判断に関与していないことを示すこと自体が難しい。言えるのはせいぜいのところ、フランス料理の例のように「多くの人は属する文化にかかわらずフランス料理をおいしく食べる」くらいのことだろう。その程度の事例であれば、A1でも説明できる。

結果として、B2を支持せず、かつA1を積極的に主張しないかたちでA2を言う、というのがもっとも穏当な立場ということになるのではないか。おそらく源河さんもそういう書きぶりなのではないかと思う。