美的ノーミーに共感するか、美的エリートに共感するか

勉強会のあとの雑談をしていて、美的ノーミー*1に共感するか、美的エリートに共感するかという問いが出た。なんとなくもやもや考えていたことがパキっとした気がした。

その場での自分の回答は次のようなものだった。ある意味で美的エリートに共感する面もあるし、美的ノーミーに共感する面もある。加えて、美的スノッブに(しぶしぶながら)共感せざるを得ない面もある。自分の中にそれぞれのキャラクターがいる。それぞれをどう飼い慣らすかという態度でいたい、と。

その場で思いついたことだが、この答え方はしっくりきた。「ダサい」の話題を考えるときも、基本的にはそういう態度でいるのだろう。

 

趣味のレベルアップを目指したりそれに満足感を覚えたりする傾向は、美的エリートと親和性がある。自分の趣味が人からどう見られるかを気にしたり、人の趣味を上や下に見たりする(つまりダサ判断を気にする)傾向は、美的スノッブと親和性がある。明らかにチープなものであれ明白に思い出補正によるものであれ、どうしようもないパーソナルな選択傾向があること(そしてそれに愛着を覚えること)は、美的ノーミーと親和性がある。どれも自分の中にある。

それを自覚したうえでどう向き合うかというのが実存の問いだとすると、「飼い慣らす」という答えがいまのところ一番自然に思える。

*1:美的ノーミーは美的エリートの逆で、ようするに美的な意識が低い人のこと。「ノーミー」という言い方は、最近JAACで出た論文から借りた。

👉 Aesthetic Normies and Aesthetic Communities | The Journal of Aesthetics and Art Criticism | Oxford Academic

この論文でそういう整理がされているわけではないが、エリート、スノッブ、ノーミーの3つ組みで考えるのが便利そうに思える。